ストリートピアノの利用モラルについて関係各所様よりコメント要請がございましたのでここに記します。
「ピアノを弾かせていただく」
ジャズピアニスト 上原ひろみ さんがマインドとされている言葉です。
上原さんは、長い歴史を有するピアノという楽器に対して低姿勢で向き合いたいという意味でこの言葉を用いられました。
脈々たる歴史の延長線、現在私たちが向き合うピアノも全ては調律や整調、補修など誰かの時間や労力そしてコストの上に存在しています。
私たちは、そうやって仕立てられたピアノを弾かせていただいているのです。
そして、ピアノは消耗品の集合体。
仮にも野放しに永遠の命を有するピアノなどはこの世にひとつとしてありません。
黎明期、ストリートピアノは利用者の善意に任される形で広がりました。
場の曖昧性や無秩序性から生じる輪のような交流が魅力の原点だったことは言うまでもありません。
たまの通りがかりに駅の隅に置かれているピアノが空いていれば少しだけ弾かせてもらう、フランクな距離感の「もの」と認識していました。
それが瞬く間にブームと化し、ルールの明文化が求められるようになった日本のストリートピアノ。
群衆が何時間もピアノの周囲に陣取り、演奏希望者が規律に従って一列に並んで順番待ちをする光景など当初は想像すらできませんでした。
先日、海外と日本のストリートピアノの違いを論ずる記事を目にしました。
愛好家からは批判が多かったようですが、考察すべき視点に富んだものだったと私は思います。
白黒はっきり区別できるものではありませんが、たとえばヨーロッパ圏の文化においては流行という概念が希薄です。
対して日本をはじめとするアジア圏では流行、トレンドが文化の基軸となりやすい。
結果として、ストリートピアノが社会の流行物となった日本では、良くも悪くも刹那的に見えてしまう側面が生じていることは否めません。
ストリートという雑多な曖昧さを意味しながら日本でも広まったストリートピアノ。
しかし言葉の受け取られ方は語源を超え、一部における実態は「無料参加型ピアノ発表会」であったり「YouTubeのカテゴリ」。
名称と実態の乖離を広げながら今日に至ります。
故にそれの認識は十人十色となり、ストリートピアノとは一体何なのか、もはや誰も説明ができなくなっているのではないでしょうか。
よって、全体に対して一概にモラルとかマナーを誰かが提案しても本質を得ません。
だからこそ、ストリートピアノなどのピアノを弾かれるときには
「ピアノを弾かせていただく」
という意識を皆が持ち寄れたら良いなと思う次第です!
それでは、楽しい音楽ライフを!